峻空会トップページ > 特番 > 07’峻空会 「親睦&ゴルフの旅」新潟、佐渡編の報告



参加総勢 26名 内一名 伊藤先輩 急用にて帰京 他一名撮影者

第11回目を迎えた峻空会恒例の「親睦とゴルフの旅」今年は新潟に出かけました。

ゴルフ組は早朝7時の便で東京を発ち、新潟駅に9時集合、途中九州から空路参加ですでに機内で出来上がった補陀、光武の両先輩をこの夜の宿泊旅館「華鳳」のバスにて迎えるというよりは何とか拾い上げ、40分間のすこぶる賑やかなドライブで桜の名所として名高い加治川の畔から右に折れ、ゴルフ場への進入路とは思えないほど長く続く赤松の原生林を抜けて北の名門「紫雲ゴルフ倶楽部」には東京を発ってからちょうど3時間で到着した。
案内の時点では新潟に一番近いと思っていた岩手県盛岡から参加の吉田先輩は陸路8時間の一人運転で朝の明ける前に到着したとのこと、誠にご苦労様でした。
スタート時間も迫りいざと思いきや、宅急便で送ったはずのクラブが届いておらず急きょ貸しクラブをオーダーするも、これが又レフティーという事でコース側も大慌て、(誰とは申しません、けして送り主が悪いのでは無く、キットこの広い日本の事、新潟までとなると届くのに一週間もかかるのだろうか、ちなみに発送地が本州最南の山口県、もうお分かりですね某氏が誰か)そんな、こんな、何はともあれあわただしくスタートの火蓋が梅雨を迎えながら雲ひとつない快晴の中に切って落とされた。

一方、観光組みは遅れる事3時間、正午の新潟に集合して今回お世話いただいた当地の顔役 加納先輩と山形から和島君の出迎えを受け、本年2月に逝去された38年度主将 赤羽雄勝先輩の自坊「龍源寺」に向かい、和島君を導師に墓前に花と供物を手向け全員で読経し赤羽先輩の冥福を祈りました。



墓前にて赤羽夫人と    写真提供:遠田先輩
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お参りした12名は先輩の奥様から盛大なる歓待を頂き、見事な宴席が用意されていたとの事でしたが、この先の行程もあり山のようなご馳走に後ろ髪惹かれる思いで早々に失礼させていただいたとのこと。

写真では、後ろ髪惹かれている様子にはまったく見えません? 写真:遠田先輩
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この日の観光予定とされていた「阿賀野川の舟下り」に出向き、幸か不幸か阿賀野の大河は急流もなく穏やかで、一行は全員無事下船した様だが、もし岩場でもあって揺られるような事があれば誰も気づかぬうちに舟の後ろの方から一人ぐらいは入水し、そのまま帰らぬことがあっても少しも不思議でないと思われる何人かがメンバーの中には含まれていたようだ。

雨を心配していたこの季節とは想えない快晴に恵まれた「紫雲ゴルフ倶楽部」は、元々日本海からの防風林として原生していた赤松林を切り開いて造られたという。
駒大の校歌、寮歌と同じ北原白秋 作詞 山田耕作 作曲のコンビで有名な「海は荒海・・向こうは佐渡よ・・」と歌われる「砂山」の名作が生まれたのも確かこの近くで赤松とグミの原が延々と続くこのあたりであったと記憶する。


何とも言いようの無いほど美しい名コースだが、それだけに少し曲げて松林入れれば脱出不能なほどの難しさと、名門コースらしく乗用カーとは使われず、当たり前のことながら18ホールの自力歩行が余儀なくされる。
カートでのゴルフに慣れきった我々の足にはかなり厳しく、スタート前に遺書として「さらば峻空会」を書き残す事を真剣に考える先輩すら出る始末となった。


スタート直前 1番ティーグランドにて記念撮影  この頃はまだまだ全員健在
ゴルフ参加者13名 前列左より敬称略  補陀 木村 凌
後列左から 伊藤 吉村 栗島 國井 山本 石川 高橋 東 吉田 原
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一組:高橋 凌 吉田 二組: 木村 補陀 東
三組: 國井 原 石川 伊藤 四組: 山本 栗島 吉村

プレーの様子は珍好混ぜ合わせて様々。  あちこちでカキィ・・ン こっちではコキーン・・と良い音が鳴り響き、まるで北島三郎の「与作」でもコースに来ているのかと思われ、松の根元にうつむき、たたずむ者あり、恨めしげに高い枝をにらむ者あり。
そんな中、松林の存在すら無視したような涼しげな顔で一人フェアウエーの真ん中を悠然と歩く「原」と言う男は本当に空手部のOBだったのか今更ながらに疑いたくなる。


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疲労も頂点に達した頃の14番ショートホールの美しさは、ここまでの惨めなスコアーを忘れさせ深く癒してくれた。
来年の10月にここ紫雲で行われる「日本女子オープン」でも、テレビ中継はこの辺りから始まる事だろうが、ここから先が難コースの連続、はたして勝利を手にするのは 藍ちゃん なのか さくらちゃん か、それとも難コースに強い 実力者の不動有理 が蘇えりをみせるのか興味は尽きないところである。・・・・
いずれにしても本当のドラマはこのあたりから始まることだろうと各々が頭の中にコースを焼き付け来年のテレビ観戦を待つ楽しみが出来あがった。

大会の結果は次の通りだが、運のよい人、悪い人、「ゴルフはまさに人生そのもの」の名言どおりの一日となった。
ところが、本当は誰が運の好い人で、誰が運が無いのか、これまた人生だから判別は難しく、強運で隠しホールに恵まれ考えられない程大量のハンデデーを得て断然トップだったはずの伊藤選手だか急用勃発、とんぼ返りで帰京したために高額賞金の懸かった優勝の権利は剥奪され、繰上げで原選手が実力どおり(運なのかも)に優勝をさらっていった。


成績表
順 位 競技者名 アウト イン GROSS HDCP NET
優勝 伊藤輔則 42 47 89 20.8 68.2
準優勝 原 継男 36 37 73 0.0 73.0
3位 栗島正美 44 48 92 17.6 74.4
4位 吉村徳政 45 43 88 12.8 75.2
5位 木村章友 46 52 98 22.4 75.6
6位 高橋俊介 42 46 88 11.2 76.8
7位 石川寿三郎 45 52 97 19.2 77.8
8位 東 久 52 50 102 24.0 78.0
9位 補陀従道 57 58 115 36.8 78.2
10位 吉田莞爾 49 49 98 19.2 78.8
11位 凌 郁朗 52 54 106 24.0 82.0
12位 國井重之 56 58 114 27.2 86.8
12位 山本治男 54 60 114 27.2 86.8

あわただしくコースを後にしたゴルフ組は一路この日の宿となる月岡温泉一の名旅館「華鳳」に向かうと、だいぶ前に到着していた観光組みが待ちくたびれたのか不機嫌な顔で待っており「もう宴会の時間だから風呂なんて入ってるひまなんか ネ・・」と和島和尚に脅されて、折角温泉に来たというのに、まるで「カラスの行水」宜しく大先輩らも慌ただしく風呂から出て行った。

思い起こせば11年前の静岡県袋井市「葛城ゴルフ倶楽部」で産声をあげたこの会は、後にも先にもただ一度だけ会長の和田先輩を参加者全員で招待させて頂き、快く受けていただいた和田先輩がいつに無く上機嫌でしこたま飲んでそのまま日帰りされたところから始まった。
以来何事にもだいぶ薄れてきた我々の記憶ながら今でもあの日のことが鮮明に脳裏に焼きついているのは当時の参加者全員に違いない。

11年前と言えばそれぞれがそれなりに若く、宴席とは言え一触即発の殺気さえ漲る緊迫を感じながら飲んだことも楽しく思い出す。
そして、それはそれでかけがえの無い思い出であり、あれからの時間は皆に同じだけの重さや楽しさを、そして同じだけの忘却も与えてくれたのだろう、回を重ねるほどに丸みを増した君子達の今年の集いには殺気のサの字など微塵も無く、ひたすらに愉快なものであった。

南宋の朱熹(しゅき)の作に「少年老い易く学成り難し」の「偶成」(ぐうせい)なる名作がある。
学が成り難いことは今更驚くところでもなく、私など既に学生時代に納得していたが、「少年老い易く」の方は自らを省みながら、又、宴席を見渡しながらもこの言葉の真実の重さが辺り一面に漂っていることに気が付いた。
ついこの間まで颯爽とした歩き姿を見せていたあの先輩が、そしてこちらの先輩がすっかりと「偶成」の中の登場人物になりかけているかに見えたのだ。
それでも少しもガッカリすることなどは無い。
五木寛之の新作「林住期」(りんじゅうき)では人間五十歳から七十五歳までを「林住期」(古代インドのバラモン教の思想にある「林住期」。それは人生の終わりの日々ではなく、その時期が人生の最も重要な時期)だと言うのである。
今年ご参加の「林住期」の皆さん、来年の峻空旅行にも是非とも出席いただき益々人生の充実したこの時間を謳歌しようではありませんか。

親睦旅行に初お目見えの方を紹介させていただくと

昭和34年卒 加納雅比古先輩
今回の計画の実現に多大なる力を頂いた先輩は、かって協会の指導員を務められ、その動きの切れの良さはいまだ些かも衰えを見せず、その姿は我等全員が手本としたいものだ。

昭和35年卒の木村章友先輩
まだまだカクシャクとしたその立ち姿からはこちらも過ぎ去った時間を感じさせない。
ゴルフでも見事な成績を収められた。

昭和38年卒、島根県から初ケンザンの遠田昭和先輩
遠田先輩の特技と思われる歌唱力の力強さは半端なものでなく、お見受けするとこ吟道の高段者と思われが、そのアオリヲ食ったのが一昨年の箱根で華々しくデビューした「九州の歌うオジサンこと光武勝造氏」の出番が激変した。

そして嬉しい事に若手から一人。
が、若いとは言え既にかなりトウのたったところで昭和45年卒の栗島正美君が参加してくれた。
ゴルフの好きな栗島君はホームペイジの案内を見て申し込んでくれたようだが、本人の話によれば申し込んだ後に参加者の顔ぶれを見て大いなる後悔におちいり悩んだというが、何となんと、結論から言えばゴルフ大会の高額賞金はさらうは、宴会では飲むは歌うは、心からエンジョして次回の参加を約束しながら帰路についてくれたのは嬉しい事だ。


前列右から
加納雅比古、木村章友、高橋安起、東 久、吉瀬 勝、田中大考、遠田昭和の先輩方
一人背を向けたご老体は、な、なんと、小生の同期である和島泰則君、ア、チャー・・・
34年(11期)から38年(14期)の林住期の面々
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少し若くなったところでも各の如し(40年16期)こちらも当然 林住期の真最中
右から光武勝造 菊地康盛 鬼海憲章 吉田莞爾
同期に虐められたか寂しげな石井政弘 各先輩方
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歌う三銃士  左から正調「蒙古放浪歌」の狼こと 高橋安起
「元祖歌うオジサン」こと 光武勝造
吟龍こと遠田昭和の各先輩方
人の世の苦悩を歌うその姿には三者三様どこかワビ・サビが見えてくる・・・
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当館の主人の挨拶でもなく、何を祈るか意味不明の一団 凌 大先輩とその身内の衆
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今年の宴は静かに幕を閉じ、一昨年の箱根のような飲みながらの稽古や逆立ち大会もなく夜は更けていった。
さあ、明日は38年の合宿が行われた思い出の地 佐渡 を訪れる、早く寝ョ寝ョと。

マンギョン・ボン号の姿も今は無い新潟港から佐渡の両津港まではジェットフォイールでジャスト1時間。
タラフク食った朝飯のせいもあるのか、船が走り出すとほとんどが眠りに付いて船内は静かなものだった。
両津港には観光バスの出迎えがあり船着場で「峻空会様」の名札を掲げたバスガイドさんを見ての某先輩の一言が「佐渡には若い女の子はイネェノケエ!・・」で始まった。

バス観光とは言え4時半には舟に乗って新潟に戻ることから行ける所も限られ、先ずは昼食とロボットの演じる能楽(道成寺)の鑑賞で、最初、全員あまり興味は示さなかった能も始まるとこれがなかなかのもので見入ってしまう。
それもそのはず佐渡は「能楽のふるさと」と言われ日本で最も能が盛んだそうだ。

江戸時代に世阿弥がここに島流しにされていた事から島を挙げて「佐渡おけさ」と「能楽」が子供たちに深く浸透し能楽堂だけでも島内に三十数余もあると言う。
出来る事ならロボットではなく本物を鑑賞できたらと少しばかり残念だった。

佐渡と言えば「トキ」。
「トキの森公園」なるトキ保護センター出向くも現在108羽ながら最近7羽ほどの幼鳥を失い、鳥インフルエンザの恐れがあるとかで隔離され40メートルの彼方から望遠鏡でトキ様のお姿を拝んできた。
在りし日の高名なる「キン」の剥製を前にして何故か佐々木 均(キン)君一人が神妙なる顔をしていたのはどこかに血縁を感じていたのかもしれない。
我々の入場料で餌のドジョウがどれほど買えたか分からないが、何時かこの島の空を美しい朱鷺色が群れなして舞う日が来ることを祈りたいものだ。トキの森公園を後にすれば島の中央部辺りを走行し、この近くにジェンキンス、曽我ひとみ夫妻が住んでいるそうで、ジェンキンスさんは観光物産所のようなところで煎餅を焼いたり販売し、お陰で売り上げはそれまでの数倍に伸びたとの事。
ガイドさんから「そこに行きますか」の声に全員で「行カネ・・ョ」と声が上がり、やむなく素通りし、切望していたジェンキンス氏との夢のコラボは消えた。

途中 造り酒屋 の見学で試飲用のただ酒を飲むツアーがあるが、飲むだけ飲んで結果一合の酒も売れた様子は無かった。
近年の酒離れに蔵元としてもシッチャキになるが、此処でわずかに売れたのは酒の入った日本酒・ボンボンだけだった。

本日のクライマックスと言ってもこれしかなく、佐渡で最高峰の金北山(1.172m)の一角で標高800mにある白雲台まで登り、下界に見える両津湾と一番くびれた反対側の真野湾が同時に一望できたのがこの日最大のイベントだった。

左後方に両津湾を臨む景勝の地にて 吉田 吉瀬 両先輩出遅れにつき不在
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昨夜は総勢25名だった参加者も、その日のうちに2人帰宅、今朝も4名がやむなく去り今回のドサ回り一行もついにこの偏狭地 佐渡の山頂では撮影者の私を含めて17名にまで数を減らしていた。
昭和38年にここ佐渡で行われた数々のエピソウドが今も残る夏合宿地は、先輩たちの消えかけた45年前のおぼろげな話をまとめるとどうやらこの写真では見えない反対側の真野湾に近いところのようだった。
そして、いまだに語り継がれる勇気ある真実、それは生まれて初めて海に飛び込み、姿が見えなくなって仲間が気が付くと飛び込んだ岩場からは遥か離れた波間に見え隠れしていたと言う某萩原先輩の武勇伝が起きたのは、今回行くことは無かった島の上部に当たる尖閣湾と呼ばれるとところらしい。

白雲台から下山して今朝きた両津港にもどると船出まで賑やかな土産物屋で名物を買い捲るもの、あるは蕎麦屋で飲み始めるもの。
4時半出港の便は一時間で新潟に戻り空路九州に飛ぶ者、新幹線で帰京する者、そして極めつけは又8時間のドライブで一人岩手に帰郷する者と、旅のフィナーレはどこか感傷的なものを感じるが来年の再開を約束して今年も峻空会親睦の旅は無事に幕を閉じた。最後になりますが改めまして今回の新潟旅行の総てをマネージメント頂きました加納先輩と和島君に心より感謝いたします、ご苦労様でした。

今回の参加者名 敬称は略させて頂きます

加納雅比古 木村章友 凌 郁朗 東 久 補陀従道 高橋安起 渡辺泰龍 吉瀬 勝
田中大考 遠田昭和 菅原 武 吉田莞爾 石井政弘 菊地康盛 光武勝造 鬼海憲章 國井重之 石川寿三郎 高橋俊介 原 継男 伊藤輔則 和島泰則 吉村徳政 山本治男 佐々木 均 栗島正美  以上26名
07’ 峻空会 新潟、佐渡親睦の旅の報告  完

N・Y



駒澤大学空手道部 峻空会
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